角館高校の校歌を作詞し、大正15年に没した「島木赤彦」。その赤彦の生まれた長野県
下諏訪町で毎年3月27日に開かれている「赤彦童謡を歌う会」で、地元の女性たちにより
角館高校の校歌が歌われてきました。
今年は島木赤彦忌で、地元の人たちに東京や角館から参加した角館高校出身者26名も加わり、
角館高校の校歌を一緒に歌いました。
赤彦忌に参加した遠藤 康さん(12期)より、感想が寄せられておりますのでご紹介させていただきます。
諏訪の畔の赤彦忌で校歌を歌う-「起」-
赤彦忌の三月二十七日、下諏訪大社内の山王閣に同窓生二七名が集結。
地元の方の案内で赤彦・不二子夫人の眠る山中の墓地で線香を手向ける。
赤彦の墓碑銘は百穂が、不二子夫人のは茂吉が筆を執ったと石碑にあるのが感動的。
墓地を下り、諏訪湖を見渡せる小高い所に建つ赤彦の住居跡「柿蔭山房」を見学してから、
いよいよ湖畔に建つ「諏訪博物館・赤彦記念館」での第二十五回赤彦忌に参列。橋本会長の
郷土への熱烈なる想いを語った謝辞は参列者の心を打つ。
赤彦童謡を歌う会のメンバーが童謡を披露。その中の「高粱」なる童謡の作曲者が、我らが
校歌の作曲者小松耕輔氏と知り、参列者一同この不思議な縁に驚く。
諏訪の畔の赤彦忌で校歌を歌う-「承」-
今年の赤彦忌のハイライトは江戸川大学教授新井正彦氏の講演「百穂と赤彦」である。
角校同窓生の特別参加に伴う特別講演の配慮が感じられ感激ひとしお。百穂画伯のご次男の
久子夫人も出席され共に拝聴される。
丁寧な七ページに亘る資料(六頁前半には角校校歌)と木曽路周辺の古地図および当時の
国民新聞のコピーを基に一時間半に及ぶ講演。
資料の百穂年譜の最初には-
明治三十九年一一月、信州ニ遊ビ、二五日、
上諏訪ニ於テ、柿の村人氏と始メテ会ス。
「柿の村人」とは島木赤彦(本名・久保田俊彦)の別号と初めて知る。これ以降百穂と赤彦の
直接の交流が始まり、そして運命の大正十四年十月の年譜に-
十月三十日、島木赤彦氏ト共ニ郷里角館ニ遊ブ。
角館中学校設立ニヨリソノ校歌ヲ委嘱センガタメナリ。
一方、赤彦自身の方は-
「多年の望みかなひて十月三十一日夜百穂画伯の国に向ふ。」とあり、次の二首-
栗原の素枯れ紅葉の道さむく
田澤の湖に下り行くなり
旅遠く友に随ひみちのくの
秋田の国の米食ひにけり
諏訪の畔の赤彦忌で校歌を歌う-「転」-
続く大正十五年三月一八日の百穂宛の書簡に「・・うつらうつらしてゐる時に歌が
割合に出て来る。然し大半価値がない。
さういふ時秋田の校歌のこといつも意識にのぼって来る・・」とある。死の九日前の事だ。
赤彦の死により斉藤茂吉が補作することになるが、遺稿には中村憲吉や岡麗らの推敲の
跡が残っており、アララギ歌人たちの総力結集を改めて思い知る。新井教授が最後に「動の
赤彦、静の百穂」と纏められたが、この動と静の玄妙なる一体が、我らが校歌となって結晶
したのだ。
その夜、赤彦記念文学祭実行委員会主催による若杉同窓会の歓迎会に臨んだ。信州人の
気質に触れた歓迎挨拶の中で、幕末維新の動乱で「偽官軍」として赤報隊の相楽総三が斬首
された際、手厚く葬ったのが諏訪の人々だったと聞いて、その信義の厚さに打たれた。
その信義の厚さが今に至り、赤彦作詞の校歌を諏訪の方々は歌って下さっている。
諏訪の畔の赤彦忌で校歌を歌う-「結」-
下諏訪町民憲章に曰く「わたくしたちは、美しく豊かなまちをつくります。進んで教養を深め、
かおり高い文化を創造するまちをつくります」。赤彦は信濃教育会の機関紙「信濃教育」の
編集主任に就任するなど信濃教育に貢献した。
香り高い文化を希求する美意識と信濃教育の伝統が確かに今に生きている。
歓迎の席上、長野県民歌「信濃の国」に対し旧秋田県民歌を歌い、最後に全参列者で
校歌の斉唱となった。
人と人の結びつきには様々あるが、詩歌という芸術を介した教育的文化的結びつきこそ
「不易」なのだ。